五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第二話 冩樂の大首絵(前) 一 寛政六年五月二十日(一七九四年六月十七日)の朝。 蔦重は、店の二階へ通じる階段を上っていた。四股を踏む力士のごとき大袈裟な足音が、蔦重の今の心情を如実に物語っている。 五月も終わりに近づいていた。梅雨はいまだ明ける様子がない。嫉妬深い女の繰り言のような雨が、連日連夜じとじと降る。 しかし昨日、久しぶりに雨が上がった。今朝は空がくっきりと晴れ上がり、庭の木々に強い陽射しが照りつけている。 「まだ、寝てやがんのか」 物置と作業場を兼ねた座敷に足を踏み入れた途端、蔦重は怒声を発した。 布団の上に大の字になって、小柄な男が鼾を掻いている。着ている薄い襦袢の前がはだけ、褌が丸見えだった。 この男、まがりなりにも武家の出だというのだから恐れ入る。怒声を浴びても、男はぴくりとも動かなかった。 業を煮やした蔦重は、両手で薄い布団のへりを掴むと、思いきり引っ張った。 男は畳の上をゴロンゴロン転がって窓際で止まり、蔦重の手には布団だけが残った。 「ふっ、ふううっ」 転がった拍子に、どこか畳で擦ったか、男が痛そうな呻き声を上げた。 その瞬間、酒臭い呼気が部屋を満たす。 「一九、食客の分際で大酒喰らって二日酔いか。いいご身分じゃねえか」 蔦重は丹田に力を込めて凄んだ。再び寝入りそうになる男に近づき、足先で男の背を強く小突く。 一九はこの男の筆名で、正確には十偏舎一九(後に十返舎)という。歳は二十九。駿河の出身で、大坂で武家奉公をしたのちに浪人し、浄瑠璃作家になった。 その後、江戸へ出てきた。 が、伝がないので仕事にありつけない。食い詰めていたところを、戯作者で絵師の山東京伝と出会った。京伝は戯作の才のみならず絵も描ける一九が気に入り、蔦重に引き合わせた。 以降、一九は耕書堂に寄食し、浮世絵用の紙の加工を手伝ったり、戯作本の挿絵を描いたりしている。 蔦重に蹴飛ばされて、一九はむくりと起き直った。 「おぉい、面白えこと教えてやるよぉ」 一九が虚空に向けて喋り出した。まだ酔いが残っているのか、視線がうろうろと彷徨っている。 「俺って男はなぁ、凄いんだぜ。筆一本で世間を仰天させられるんだ」 寝惚けているようだが、まるで役者のように堂々とした口振りだ。 日頃から絶え間なく与太を飛ばし、法螺を吹く一九のこと。どうやら夢の中で自身の戯作か絵の自慢をしているらしい。 「この、ぐうたら兵衛が。いい加減に目を覚ましやがれ」 怒りで、血が頭のてっぺんまで駆け上る。蔦重は上半身を起こした一九の顔の前に回り込み、一喝した。 揺らいでいた一九の瞳が、一点で止まる。 「おや、蔦重さん。どうしてここへ。いや、そもそも、ここは、どこだ」 一九はやっと正気を取り戻したようだ。右を向き、左を向き、首をぐっと反らして後ろを見る。 「ここは、お前を住まわせてやってる店の二階だ」 「あれ、確か昨晩は賭場に行って小金を儲けたんで、高砂町の煮売酒屋で一杯やった。そこまでは覚えているんだが、はて、いつの間に帰ってきたんだ」 とぼけているのか、本当に覚えていないのか、首を傾げて当惑している。 一九は器用な男で、耕書堂での仕事も手際よくこなすし、人当たりも悪くない。たまに書いては持ってくる小咄も面白くて、蔦重は一九の文才を高く買っていた。まとまった話を書き上げたら出版を検討してやる、と声も掛けていた。 だが一九は、店の手伝いで小銭を稼ぐとすぐに遊びに出かけてしまう。「飲む・打つ・買う」が並外れて好きで、有り金を博打に注ぎ込み、勝てば「飲む・買う」で散財した。 たまに大金が入れば行き着く先は吉原だが、昨夜は懐具合が寂しく、馴染の酒屋で正体がなくなるまで飲み続けたのだろう。これでは、戯作を書き上げる暇など毫ほどもありはしない。 働かざる者は食うべからず。商売一筋の蔦重だ。飲んだくれたあげく朝寝を決め込む輩を容認する心は、あいにく持ち合わせていなかった。 蔦重は手にした布団を持ち上げ、一九の横っ面を張り飛ばした。 「だてに只飯 を喰わせてるわけじゃねえんだ、とっとと仕事に懸かりやがれっ」 怒鳴ったおかげで、頭に上り切っていた血が、すーっと心ノ臓へ向かって落ちていく。 その時だ。背後から、げらげらと無遠慮な笑い声が聞こえた。 「朝っぱらから何を騒いでいるんだ。腹を立てると心ノ臓に障るぞ」 振り返ると、襖に寄り掛かるようにして京伝が立っていた。 二 「おめぇこそ、朝っぱらから断りもなく他 人 の店に上がってきやがって、いってえ何の用だ」 蔦重は非難の目を向けた。 とはいえ、京伝の振る舞いにさして腹を立てているわけでもなかった。 案内もなく勝手に上がり込んでくるのは毎度のこと。それより、前年に細君を亡くし、自宅に籠もりがちだった京伝が、外出する気力を取り戻した姿を目の当たりにして安堵したくらいだった。 「耕書堂きっての売れっ子京伝様に向かって、ずいぶんと強気な物言いじゃねえか」 京伝も負けじと切り返す。そして、 「耕書堂の浮沈に関わるかもしれねえ妙な噂を聞き込んできてやったというのに。こんな冷淡な扱いを受けるんなら、もう帰るかな」 と、思わせぶりな流し目を呉れ、ぷいっと背を向けた。 しかし、京伝の背中は自信満々に反り返っている。妙な噂と聞いて蔦重が引き留めないはずはないと確信しているに違いない。 悔しいが、図星だった。耕書堂の浮沈に関わると聞いた時点で、蔦重は一九への怒りから解き放たれ、興味は早くも京伝の話へと移っている。 蔦重は不本意ながら、京伝の背に声を掛けた。 「ちょっと待て。今、麦湯でも持ってこさせるから、ゆっくりしていけ」 すると、京伝の背が小刻みに揺れた。座敷の中へ向き直ると、大股で歩き、蔦重の前に座る。顔には勝ち誇ったような笑みが張り付いている。 「他ならぬ耕書堂の主人に頼み込まれたんじゃあ、致し方ねえな。凄まじく忙しいんだが、少しぐらいなら居てやるよ」 京伝は恩着せがましく「忙しい」を強調すると、おもむろに鼻をひくつかせた。 「何だ。やけに酒臭いぞ」 「ああ、こいつのせいだ。仕事もせずに、二日酔いで今まで寝てやがった」 蔦重は一九を見遣る。一九は投げつけられた布団を抱え込んで、ボンヤリと蔦重たちのやり取りを聞いていた。 「いつまで、ぐずぐずしてやがるんだ。井戸端で顔を洗って、さっさとドーサを塗りやがれ」 蔦重に急き立てられ、一九は難儀そうに腰を上げた。 部屋を出て行く際に、ちらりと京伝の顔を窺ったのは、噂が気になるからだろう。「飲む、打つ、買う」よりさらに与太と悪戯 が好きな一九は、顔を洗ったら大急ぎで戻ってくるはずだ。 「さてと、話を聞こうか。妙な噂ってのは、どういうことだ」 一九が階下にいく音を確かめてから、蔦重はやっと口を開いた。 「あいつが戻ってくるのを待たなくていいのか」 京伝は細く形のいい眉を片方だけ引き上げ、一九の去ったあとを示した。 「あの男は口が軽いから駄目だ。特に酔っ払うと、何でもかんでも、べらべら喋りやがる。おめぇの聞きこんできた噂はこの店に関わる話なんだよな。だったら、まずは一通り俺が聞く」 一九は悪い奴ではないが、京伝が連れてきただけあって、めっぽう癖のある男だった。 物怖じしない性格なので、あちこちで仲間を作っては皆で酒を飲む。飲んだくれるだけならまだいい。酔うと他人の秘密や失敗を面白おかしく喋り捲った。 蔦重も一九のお喋りの被害者だった。 蔦重は持病の痛風に加え、近頃、脚気の兆しがあった。 下肢の浮腫 があり、全身がだるい。その上、時折、痛風の痛みも出る。すると家の中を歩くにも難儀した。 店主の患いは商売の信用に影響するから、家人や使用人には固く口止めしていた。だが一九は、泥酔した折に飲み屋で吹聴したらしい。 噂は風よりも早く市中に広まり、蔦重は商いの相手から、過剰に心配される羽目になった。あるじが体調不良と聞き、様子を窺いに来た商売敵もいた。 ところが酔いが醒めてみると、一九は喋った内容を全然覚えていなかった。下手をすると飲み屋に行った記憶すらないのだから始末が悪い。 何度か迷惑を被り、蔦重は一九の締まりのない口を全く信用しなくなっていた。 一九のだらしなさを知る京伝も納得したようだった。 「わかった。それじゃ、まずは蔦重だけに話してやるよ」 京伝は蔦重の耳元に顔を寄せた。 「最近、耕書堂から売り出した、冩樂という新参者の絵師がいるな」 「ああ、役者の大首絵二十八枚を、いっぺんに出した」 蔦重は肯定した。 「その二十八枚のうち、『花菖蒲 文禄 曽 我 』を材にした絵が何点かあったはずだ」 『花菖蒲文禄曽我』は、まさに今、都座で上演中の歌舞伎の演目。上演に先駆けて出演する役者の絵を売り出し、一気に売り切ろうという目論見だった。 「大岸蔵人の妻、やどり木を描いたやつか」 やどり木を演じた二世瀬川富三郎の大首絵に違いない。富三郎は吊り上がった目、骨ばった顎と無骨な顔立ちで、「いや富」だの「にく富」だのと綽名されるほど、個性的な風貌の女形だ。 「やどり木を描いた絵に間違いはねえんだが、『いや富』一人じゃねえ、腰元の役者も一緒の絵があったろう。あまり知らない顔だから、『三階さん』かもしれねえが」 「役者の選定は絵師に任せたからなあ、有名どころはともかく俺も『三階さん』の素性は知らねえ」 蔦重は即答した。「三階さん」とは歌舞伎の大部屋役者の通称。芝居小屋の三階に楽屋があるので、その名がついた。 「その『いや富』と三階さんの絵が、どうかしたのか」 京伝の意図がわからない。蔦重は続く台詞を待った。 「絵の中の二人の顔がね、半分に縮んじまったんだって」 京伝はのっぺりとした顔を、くしゃり、と歪めた。 三 「おめぇ、お菊さんを亡くして、頭が呆けちまったんじゃねえか。絵に描かれた顔が縮むだなんて、どう考えても有り得ねえ話だろう」 干しすぎた梅干しのように皺くちゃになった京伝の顔に、蔦重は憐れみのこもった眼差しを向けた。 すると京伝は、歪めていた顔を目一杯に引き伸ばし、「失敬な」と叫んだ。 「蚯蚓 や蝸牛 よりも頭の回転が鈍いくせに、何をぬけぬけと、ほざきやがる。頭に来たから、もう帰る。残念だな、この話は実際に縮んだ絵を見た男から聞いたんだが……」 と、煙草入れから取り出しかけた煙管を、これ見よがしに仕舞おうとする。 「単なる噂じゃねえのか。そうなったら、話は別だ。絵を見たってのは誰なんだ」 蔦重は続きが気になり出した。京伝の冗談はタチの悪い筋も多いが、時折、摩訶不思議な情報を拾ってくる。 「教えねえ」 京伝はぷいとそっぽを向いた。拗ねている時の、いつもの手だ。きっと心の中ではどうやって相手に詫びさせようか、あるいはどんな交換条件を突きつけようか考えている。 「俺の頭が呆けてるって」 京伝は顔を背 けたまま、刺 を含んだ声を出した。 「いや、その、天下一の戯作者で天才絵師。その上、女泣かせの洒落男、京伝先生に向かって『呆けた』なんて、口が裂けても言えませんや。俺は『木 瓜 の季節も終わって、いよいよ夏が来るなあ』と呟いただけだよ」 蔦重は揉み手をしながら、苦しい言い訳をした。 京伝の機嫌を損ねたとわかったら、一刻も早く下手に出て、機嫌を取り結ぶに限る。不機嫌が長引けば長引くほど、後で容赦ない仕返しが待っているからだ。 すると、京伝の頭が僅かに動いた。「京伝先生」にくっ付けた数々のおべんちゃらが功を奏したらしい。仕舞いかけた煙管を持ち直すと、煙草を詰め始めた。 「頼む、この通りだ」 少し崩して粋な形に仕上げた京伝の髷に向かって、蔦重は手を合わせた。失礼といえば失礼だが、相手がそっぽを向いているのだから仕様がない。ここで畳み掛けておかねば機を逃す。 懇願するのは癪だが、一九が戻ってくる前に話の全容を知っておきたかった。耕書堂から出た摺物が世間の話題になっているのだったら、良きにつけ悪しきにつけ、策を講じなければならない。 「ふーっ」京伝が振り返って煙を吐き出した。顔にしてやったりという、ふてぶてしい笑みが浮かんでいる。 「まあ、よかろう。特別に教えてやるよ。見たのは、湯島の〈亀屋〉という小さな絵双紙屋のあるじだ。一昨日の夕刻、売れ残った摺物を片づけようとしたら、描かれていた女形の顔が半分の大きさになっていたそうだ」 〈亀屋〉なら蔦重も知っている。耕書堂から出る浮世絵を卸しているし、店主とも顔見知りだ。 「それが冩樂の絵だったってぇのか。冩樂の大首絵は、役者の持ち味を強調するあまり、馬の面みてえに大きく長く描かれているからな。半分になったら、本来の役者に近づくだろうが……、いや、そんな話じゃねえ」 話が脱線しそうになり、蔦重は頭を、ぶるんぶるん、と振った。 「本当に役者の顔が縮んだのか。それは、三階さんの絵だけなのか」 「ああ、三階さんの絵は、とりわけ売れ残りの数が多かったが、そのうちの一枚だったらしい」 「俄かには信じられねえがな」 〈亀屋〉のあるじは還暦に近い歳だが、地道に商いをしてきた男で、決していい加減な虚言を吹聴する人間ではない。だが、あまりにも話が突飛すぎて、得心するわけにもいかなかった。 「じゃ、くだんの絵を預かっていると言ったら、信じるか」 どうだ、とばかりに、二つの穴が丸見えになるほど、京伝の鼻が上向いた。 「なんで現物があると早く言わねえんだ。ああ、信じるよ、信じるとも。だから、とっとと絵を見せやがれ」 蔦重は身を乗り出し、京伝の胸倉に掴みかかった。 「わかった、わかった。見せるから、その手を離せ」 京伝は蔦重の手から体を捻ると、自らの着物の袖に手を入れた。筒状に巻かれた粗悪な紙が蔦重の目の前で取り出される。 「だが、一つ、不可思議なことがある」 と前置きすると、京伝は紙を広げた。 四 畳の上に大首絵が現れた。背筋をぴんと伸ばした武家の妻と、腰を屈めてへりくだった様子の腰元が画面いっぱいに描かれている。 しかし、絵は蔦重の記憶に残る印象と何ら変わりがなかった。 「何だ、摺ったまんまと、まるっきり同じじゃねえか」 縮んだという役者の顔がどんな異相になったのか。どきどきしながら構えていた蔦重は、売り出した時と寸分も変わらぬ絵を目にし、拍子抜けした。 「亀屋の主人に話を聞いたのは昨日なんだが、その時は確かに役者の人相が変わっていたそうだ。蔦重に見せようと、今朝、この絵を借り受けに行ったら元の顔に戻っていた。元に戻ったと言っても、まだ普通よりはずいぶん長いがな」 役者の個性を強調しているから、冩樂の絵の役者は、はなから馬面気味に描かれている。 「しかしこれじゃ、本当に縮んだかどうか、わからねえじゃねえか」 蔦重は疑念を口にした。 「そうなんだ。俺も話に聞いただけで、顔が縮んだという場には居合わせていなかった。現物を借りれば確認できると考えたんだが、まさか元に戻っちまうとは」 京伝も当惑している。ひっきりなしに煙草を喫んでいるのは、気を乱された時の癖だ。 「亀屋の話を信じるとすれば、絵の顔は縮むだけじゃなくて、伸びもするわけだな」 蔦重は考えるふりをして、襟元に顎を埋めた。朝から快晴で、気温もぐんぐん上がっているようなのに、氷室にいるみたいに首の周りが寒かった。 遠くで女たちがどっと笑う声がする。口八丁の一九が女中相手に与太を飛ばしているのかもしれなかった。 「それだよ」 京伝が腰を浮かせ、顔を寄せてきた。 「我々も、顔が伸び縮みするところを見たくねえか」 京伝の紅く染まった頬を見つめ、蔦重は嫌な予感に駆られる。 以前にも似たようなことがあった。あれは女敵として討ち取られた花魁にまつわる怪異に見舞われた時だ。京伝の酔狂のせいで、真夜中の謎解きの場に無理矢理引き入れられた。 不思議や怪異は京伝の大好物。亀屋の話の信憑性が薄れたからといって、京伝が「はい、さようなら」と、おとなしく引き下がるとは思えない。 「いや、俺はいい」 蔦重は短く、しかし、きっぱりと言い切った。 ここは興味のないふりをして、関わり合いにならぬよう、はっきりした態度を取らなければならない。 「なぜだ。話の真偽を突き止めたくねえのか。亀屋は魂消て、あちこちで喋っちまったようだ。噂が悪い方角へ転べば、耕書堂も何らかの痛手を被るかもしれないぜ」 「どう悪い方角へ転ぶってんだ」 「例えば、顔の造作を不自然に誇張され不細工に描かれた役者たちの怨みつらみ。それが積もり積もって怨念になり、憎き冩樂と耕書堂に祟るべく怪異を引き起こしたとか、さ」 京伝は片頬を引き攣らせ、不気味な笑みを見せた。優男が不自然な表情を見せると、人ならざるものに似るような気がする。 蔦重は黙り込んだ。 事実、祟られる要素は大いにあった。 冩樂の絵は、大田南畝など一部の教養人には好意的に評価されたものの、商いとしては決して成功とは言えなかった。人気役者の多くが役者の特徴をひどく誇張した冩樂の絵を批判し、贔屓が買い控えたためだ。 「なっ、悪い方角へ転ぶと面倒だろう。だったら、俺たちで事の真偽を確かめるんだ。そうすれば噂はいい方向へ転じるかもしれねえ」 「どうするつもりだ。いい方向へ転じるなら乗ってやってもいいが」 蔦重は弱腰になっていた。店の悪評はすぐさま売り上げの減少に結びつく。 「決まってるじゃねえか。亀屋が見た時と同じような場を整え、本当に絵の顔が伸び縮みするのかどうか、俺たちの目で見定めるのさ」 案の定、京伝の真意は「怪異の再現」だった。 「わかった。いつ決行する」 消極的ながら、蔦重も賛同する。 「うーん、俺も、いくつか仕事を抱えて、忙しい身だからな。空いてる日をまた知らせるよ」 と怪異を再現しようと騒ぐわりには、京伝の物言いは素っ気なかった。 「何だ。今夜にも確かめるんじゃねえのか。事の真偽を見定めるんだったら、早いほうが……」 蔦重は反論する。だが、終わりまで言い終わらないうちに、京伝が襖の外を窺うように身を乗り出した。 「しっ、誰か来るぜ」 慌てて蔦重も耳を澄ます。 怪談を上ってくる足音がする。女たちをからかい終わった一九だろうか。しかし、ひょっとこ踊りの踊り手のように陽気な一九の足音とは少し違う気がした。 やがて足音の主が姿を現した。 「なんだ、春朗か。何か用事でも」 京伝が何くわぬ顔で声を掛ける。襖の向こうに立っていたのは、勝川春朗(後の葛飾北斎)だった。 いや。近頃、勝川派と悶着を起こして破門になったから、ただの春朗か。起き抜けで、急いで出てきたのか、目の縁のあちこちに目脂がついている。 「ちょっと、一九のやつに話を訊きたかったんでさ」 春朗はあまり口を動かさず、ぶすっとして答えた。 「一九は下で油を売ってるよ。いや、もしかして母屋でお芳に飯を食わせてもらってるかもしれねえ」 蔦重は、亭主以外の男には大甘なお芳の性分を思い出した。 一九のような口上手の男は、なぜか女子供に受けがいい。 すると春朗は小さく頷き、 「わかりやした。それじゃ、下に降りて探してきますわ」 と、うっそりとした足取りで階下へ戻っていく。 「なんだか暗いな。あいつはどこへ行っても愛想がない。『春朗』とは名ばかりだ。冬陰とか冬暗のほうが似合ってるぜ」 京伝が苦り切った表情で言い捨てた。 「仕方あるめえ。勝川派を破門されて仕事がねえんだよ。暗く陰気にもなるさ」 春朗破門の報は、あっという間に世間に知れ渡った。江戸画壇の一代勢力である勝川派を慮った本屋は、皆、一斉に春朗に仕事を頼まなくなったのだ。 「春朗の得意な名所絵や役者絵を、耕書堂から出してやればいいじゃねえか」 「まあ、ぼちぼちな。今、動くと目立ち過ぎる。俺だって勝川派の恨みは買いたくねえからな」 蔦重は本音を打ち明けた。 そこへ、調子っぱずれの鼻唄が聞こえてきた。一九だ。巷で流行している端唄のようだが、何の唄なのかは定かでない。 「一九が戻ってきたようだ。それじゃ仕事があるんで、俺は帰るよ。これ以上、あの男に酒臭い息を吹きかけられたら、こっちが悪酔いしちまう」 一九と鉢合わせするのを恐れるように、京伝がそそくさと腰を上げた。 五 蔦重は駒形にある小さな料理屋の座敷で、苛々しながら冩樂を待っていた。 刻は暮六つの少し前。まだ夜の帳が下りるには早い時刻だが、昼過ぎより厚い鈍色の雲が張り出し、空は今にも号泣しそうな様相を呈していた。 蔦重は蝶足膳に載った杯を左手に取ると、手酌で徳利の酒を注いだ。 痛風に加え、新たに脚気という病を得た近頃、蔦重はとみに酒が弱くなった。 以前は、一晩に清酒一升は当たり前のように飲んでいた。 だが、最近は四合も飲めば、痛風の痛みに見舞われるわ、心ノ臓が祭太鼓のようにどんどこ鳴るわで、酔いの醒めかけたあたりで地獄の苦しみを味わう羽目になる。そのため医者や女房のお芳に強く窘められ、このところ家では全く酒を飲ませてもらえなかった。 しかし、今夜は状況が別だ。酒でも飲まねば正気を保てぬほどの危うい事態が耕書堂に起きていた。 蔦重は左手に持ったままの杯を口元へ運び、一気に呷った。 徳利を取り上げ、再び注ぐ。酒が杯に満ちるまで待ち切れず、半分ほど注いだところで、また呷った。 「お連れさんが見えましたよ」 顔馴染みの仲居に案内され、冩樂がぬうっと入ってきた。 「遅かったな。待ちかねたぞ」 蔦重はわざと仏頂面をつくり、冩樂を迎えた。かれこれ約束の時刻を半刻近くも過ぎている。 冩樂という名はもちろん画号だ。元はそこそこ名のある絵師だったが、名を伏せて描かねばならない事情があった。 画号は二十八枚の絵を売り出すにあたり、蔦重が考えてつけた。蔦重は普段から元々の名ではなく、自らが名付けた冩樂という号で呼んでいる。 「すいやせん」 冩樂はぎょろ目を落ち着かなく動かしながら、蔦重の向かいに座った。 その途端、汗がすえたような不快な臭いが蔦重の鼻をつく。いつ洗濯したのかわからないほど垢染みた冩樂の着物から立ち上った臭いだった。 「何をしてたんだ」 「次の売り出しのための下絵を考えてたんですわ。気がついたら、約束の時刻を過ぎてました」 蔦重の注ぐ酒を杯に受けながら、冩樂は弁解した。 嘘ではないらしい。その証拠に、木綿の着物の袖口には、あちこち絵の具が付いている。色味の瑞々しさから見て、付着してからそれほど時間は経っていないようだった。 「実はな、今夜おめぇを呼び出したのは、その、次の売り出しの件だ」 蔦重は声を落とし、本題に入る。 冩樂は表情を変えることなく、蔦重の言葉を待っていた。元々口数の多いほうではないから、余計な合いの手など挟まない。普段、蔦重とのやり取りも用件のみ。本来なら、蔦重が親しく酒を酌み交わしたいと思う相手ではなかった。 「この間、売り出した役者絵は、すべて大首絵だったな」 蔦重の問い掛けに、冩樂は訝しげに頷く。なぜ今さらわかり切った話をするのか、といった顔だ。 蔦重は構わずに一息に続ける。相手に言い渡すと言うより、自らに言い聞かせるつもりであった。 「いいか、次の売り出しは、大首絵から趣向を変える。役者の頭のてっぺんから足の爪先まで、画面に全身が入るように描いてくれ」 「ええっ、どうしてですかい。大首絵の趣向は蔦屋さんだって惚れ込んでいたじゃねえですか」 冩樂は目を剥いて、蔦重に詰め寄った。 六 「ああ、おめぇの描いた大首絵を見た時、古今東西稀に見る大傑作だと思ったよ。迫力のある図柄だし、役者の本性をあれだけ残酷に炙り出してんのに、奇妙な美しさがある」 蔦重は初めて冩樂の絵を見た時の衝撃を思い出していた。 大首絵の元になった図柄は、冩樂が手遊びに描いた一枚だった。つまりは、悪戯描きのようなものだ。 雛形は三世市川高麗蔵。『敵討乗合話』の敵役、志賀大七を描いた図柄は、ひどく窪んだ凄みのある目と憎々しげな高い鼻をこれでもかと強調していた。全体としては、あまり本人と風貌が似ていないにもかかわらず、まるで今まさに舞台上で演じているがごとき迫力に満ちていた。 「そこまで褒めてくれるのに、何で次も大首絵で行かねえんですか」 冩樂の顔は険しかった。肚の内に苦汁を溜め込んでいるようだ。感情が高ぶっているのか、耳まで赤くなっている。 無理もない。大首絵を短期間で商品化できた背景には、冩樂の絵に惚れ込んだ蔦重の積極的な働きかけがあったからだ。倹約が奨励される時世に、豪華な雲母摺大判での売り出しを決め、彫師や摺師に多大な労力を課した。 なのに今になって、大首絵を止そうと言われても、すぐには納得できないに違いない。 しかし、蔦重には方針を変えざるを得ない事情があった。 「実はな、売れてねえんだ」 蔦重は眉を曇らせた。 「売れてねえって、高麗屋(四世松本幸四郎)や紀伊国屋(三世澤村宗十郎)の絵もですかい」 下を向いて煮穴子を突ついていた冩樂が、驚いて顔を上げた。普通、芝居の興行に先駆けて売り出せば、人気役者の絵からどんどん売れていくはずだった。 「高麗屋のも大和屋(二世坂東三津五郎)のも、まだ絵双紙屋にどっさり残ってるんだよ。描かれた役者連中がボロクソに腐したせいだ。『こんな悪相に描かれて、まるで本物の悪党みてえだ』とか『女形なのに、吊り目に馬面』とかさ。それを耳にした贔屓が、みんな買い控えた」 「だが、南畝先生は、俺の絵を手放しで褒めてくれたと聞いたが」 南畝先生とは、狂歌師で戯作者の大田南畝のことだ。 「ああ、文人たちには総じて評判がいい。あいつらは何をおいても、洒落や与太を一番に据える奴らだからな。おめぇの描いたようなぶっ飛んだ絵を喜び、手放しで賞賛するに決まってる」 「江戸の文人たちのお墨付きを得たのに、なぜ売れねえんだろう」 冩樂は首を捻る。 「あいつらは廉価版の浮世絵は買わないし、買っても枚数はたかが知れている。要するに、もっと役者の贔屓が、ばんばん買いたくなるような絵じゃないと商売にならんのだ」 蔦重の説明を聞いて、冩樂はまた押し黙った。塩雲丹で和えた煽烏賊の小鉢を箸で掻き回している。 「何だ、不服そうな面だな。なら、やめるか。おめぇが春章や歌麿を脅かすような絵師になりてぇって言うから、こちとら手を貸したんだがな」 蔦重は冩樂の顔を覗き込むようにして凄んだ。 浮世絵はかつてのような豪華な仕様ではなくなり、好事家だけでなく、庶民が気楽に買える消費財となった。絵師の数も大幅に増えた。 今や、版元や贔屓にうまく取り入る才覚がないと、いくら画才があっても江戸の絵師の中で頭角を現すのは難しかった。しかし、冩樂は偏屈な性格が災いし、人づきあいがうまくない。 「おめぇのような頑固で無愛想な性 質 じゃ、うち以外のどこの版元にも食い込めねえぜ。せいぜい戯作の挿し絵の仕事が回ってくれば御の字だ」 歌麿をはじめとして、耕書堂には蔦重が無名時代から育て上げた絵師も多い。冩樂の変人ぶりは感心しないが、手元から放すには惜しい逸材だった。 「もう一度だけ、大首絵で勝負させてくれませんかね」 冩樂は己の絵の力量に、絶対の自信を持っている。それほど気位の高い男が、床に頭を擦り付けた。 「昔の耕書堂だったら、おめぇの願いを聞き入れたかもしれねえ。だが、今は、もう駄目なんだ」 蔦重は無念の思いで目を伏せた。 七 蔦重は杯の酒を飲み干し、喉を潤してから先を続ける。 「今迄おめぇも、そこそこの絵師として生きてきたんだから、俺と京伝が受けたお咎めの話ぐらいは知ってるだろうが」 「京伝さんが手鎖五十日の罰を食らい、蔦屋さんが身上半減のお咎めを受けた件だね」 冩樂は小さな声で呟いた。 寛政三年、老中首座にあった松平越中守定信の改革の一環として、江戸の出版界に粛清の嵐が吹き荒れた。 当時、越中守の緊縮財政策を批判、揶揄した洒落本や黄表紙が続々と出版されていた。 作者は先の天明期に田沼主殿頭 意次の庇護のもと、自由闊達に物していた戯作者ばかりだった。その筆頭が山東京伝であり、京伝の著作のほとんどを出版していた版元が、耕書堂であった。 「ああ、そうだ。お上は、時の政道をおちょくる京伝と俺を罰すれば見せしめになると考えたんだ。京伝は手鎖の刑で戯作を物せなくなったばかりか、生活にも不自由した。耕書堂は身代の半分を持って行かれた。ちょうど商いの手を広げたところだったから、ひでえ痛手を被ったよ」 商売を大きくし、儲けるだけが生き甲斐だった蔦重にとって、没収された財産はいわば自らの命を削り取られたようなもの。打撃は大きく、一時は気分が落ち込み、商いに取り組む気力をなくした。気に病む日が多くなり、体調を崩したのち、脚気を患った。 「けど、お咎めを受けたとしたって、歌麿師に描かせれば、またいくらでも売れたはずだ」 冩樂が指摘する。初めは無名だった歌麿も、次第に名が売れるようになり、寛政三年当時、すでに人気絵師になっていた。 「確かに歌麿の絵で、一財産を築かせてもらった。だが、まだ過料(金銭罰)を受ける前と同じじゃねえ。歌麿にはもっと描かせたいと考えているのに、あいつは他店の仕事も受けているんだ。近頃じゃ、うちの仕事を断ってまで、他で描いてやがる」 「そういや、先頃、大々的に売り出された歌麿師の『当時全盛似顔絵揃』は若狭屋から出たんでしたっけね」 「ふん、あの恩知らずの鉄面皮が」 蔦重は鼻息荒く罵った。溜まりに溜まった歌麿に対する不満が思わず漏れ出た格好だ。 「いいんですか。そんなこと言って。秘蔵っ子が他で描いても、恨み言の一つも零さねえ蔦重。さすが侠気があると、巷で評判になってますぜ」 冩樂が片頬をいやらしく歪めて笑った。 「うるせえ、ちょっと口が滑っただけだ。今の台詞は他言無用にしとけ」 圧するように蔦重は声を低めた。 蔦重は、耕書堂を離れて歩き始めた歌麿を非難したことは今まで一度もなかった。だから、蔦重は歌麿の成長を願い、あえて一人歩きをさせたのだと、世間は好意的に捉えたようだ。 しかし、内実は違う。非難の舌鋒を振るえぬほど、歌麿の裏切りに怒り狂っていただけの話だ。少し落ち着きを取り戻した今なら、いくらでも誹謗する用意はできている。 ただ、すでに江戸の文人として名を馳せている蔦重である。大っぴらに歌麿の行動を咎めるわけには、残念ながらいかなかった。 「てなわけで、今の耕書堂には、人気のねえ大首絵を強気に出し続ける力は残ってねえんだ」 「人気のねえ、って……。そもそも役者の顔を誇張して描けと持ちかけたのは、蔦屋さんじゃねえですか」 「そうだが。まさか、あんなに紙一杯に顔を描くとは思わなかったのだ」 冩樂の絵は紙の半分近くを顔が占めている。歌麿にも大首絵があるが、描かれているのが美人ならともかく、馬面で思わず吹き出してしまうほど人相の悪い役者絵では、受ける印象がまるで違った。 「仕方がねえでしょう。顔の中でも、特に目を藪睨みにして、鼻を大きく描けと蔦屋さんは言った。〈スガ目〉で〈でか鼻〉に描くにはあのくらい顔を大きくしなきゃ釣り合いがとれねえんだ」 冩樂が杯を取り上げ、一気に呷った。普段は嗜む程度しか酒を飲まない冩樂にしては珍しい。 「そもそも、何で目と鼻なんだ。役者は皆が皆、〈スガ目〉〈でか鼻〉ってわけじゃねえ。あれじゃ、けえって役者の持ち味が殺がれちまうよ」 冩樂のぎょろ目が三角になりそうなほどきつくなっている。絵に関しては研究熱心な男だから、蔦重の出した注文に矛盾を感じていたらしい。 「顔の真ん中にある目と鼻を誇張すれば、迫力が出ると思ったのだ」 蔦重は膳の上の雲丹に箸を伸ばす振りをして俯いた。 「本当かい。〈スガ目〉で〈でか鼻〉の越中守を当て擦ったんじゃねえのかい」 冩樂は首を大きく突き出し、蔦重を見据えた。 蔦重は鳩尾に拳を食らったようにたじろぐ。 「何を証拠に、そんな戯けを。冗談もたいがいにしろい」 動揺が面に出ないよう、蔦重は必死に取り繕った。 冩樂の放った追及の矢は、見事に的の芯を射ていた。 松平越中守は目つきの悪い男という噂だった。しかも鼻翼の張り出した大きな鼻越しにものを見るから、必然的に寄り目がちになる。 倹約、倹約と目先の政策ばかりを優先した越中守。すでに老中職を辞した越中守を密かに揶揄してやろうと、蔦重は冩樂に注文を出したのだった。もちろん、三年前に過料という煮え湯を飲まされた報復の意味もある。 (こいつは、油断ならねえな) 蔦重は胸のうちで唸った。 まさか、この場で絵師本人に看破されるとは、思っていなかった。 一九とは違い、冩樂は口数が少ない分、何を考えているかわからない。 蔦重は先ほどから、かなり酒を過ごしている。酒の勢いで余計な話をぶちまければ、さらに痛くもない腹を探られそうだった。 「何にしても、大首絵は終わりだ。次は見得を切っている役者の頭から足先までを全部描いてくれ。そうすりゃ、〈スガ目〉も〈でか鼻〉も目立たなくなる。まあ、おめぇがどうしても嫌ってんなら、俺にも考えがあるけどな」 最後は脅しめいた台詞で締め、蔦重は話を断ち切った。 八 蔦重は料理屋の座敷で一人茶漬けを掻き込んでいた。 冩樂は四半刻前に帰っていった。いや、先に帰したと言うべきか。 世間はおろか、彫師、摺師、耕書堂の使用人にいたるまで、冩樂の正体を知る者はいなかった。冩樂が、どこの誰で、どんな経歴なのかを掴んでいるのは、蔦重と本人だけだ。 だから、冩樂の正体を他人に気取られぬよう、打ち合わせをするときは耕書堂ではなく、毎回、日本橋から離れたところに店を構える料理屋を使った。蔦重とは行きも帰りも行動は別にした。 また、二人きりになっても、給仕のために仲居が部屋にいるときは、決して冩樂の名を口にしなかった。 それなら絵師の本名を呼ぶなり、別の号で呼ぶなりすればいいようなものだが、絵師自身が冩樂の名で呼んでほしいと願ったのだから致し方ない。あの男なりに何か考えがあるらしいが、「冩樂」の号に込められた蔦重の思いを知っても、果たして呼ばれたいと思うかどうか。 茶碗が空になったのに気づき、蔦重は仲居を呼び、お代わりを頼んだ。すぐに海苔のたっぷり載った茶漬けが運ばれてくる。 蔦重はさっそく箸をつけた。やはり最後に米の飯を気の済むまで食べないと、食事をした気がしない。 二杯目の茶漬けを啜り終わり、ようやく人心地がついた。考え事を再開する。 人は謎を好む生き物だ。謎の絵師が描いた大胆な構図の絵が売り出されれば、人々は好奇に駆られて手に取るはずだと蔦重は踏んでいた。 しかし、描かれた役者連中の予期せぬ拒絶に遭い、売れ行きは芳しくなかった。 ただ、冩樂にはわざと伝えなかったが、蔦重は一縷の望みを抱いていた。京伝が聞き込んできた顔の縮む絵のことだ。 後から調べたところ、描かれていたのは、大岸蔵人妻やどり木役の二世瀬川富三郎と腰元若草役の中村万世だった。この二人の顔が伸縮したらしい。 「三階さん」の中村万世はともかく、二世瀬川富三郎は冩樂の絵に文句をつけた一人だ。よって、二人の絵は、他の絵に比べて大量に売れ残っている。 京伝は「怪異をうまく宣伝に使えば、商売に生かせる」と言った。 蔦重も同感だ。怪異が評判になれば、残っている絵が売り捌けるかもしれない。いうなれば博打のようなものだが、冩樂に再び大首絵を描かせる目も出てくる。 それには本当に怪異が起こるのか、蔦重自身の目で確かめる必要があった。 (あれから二日も経つのに、京伝のやつ、一向に来る様子を見せねえが、いったいどうしたんだ) 京伝は怪異の再現を約束して以来、耕書堂に顔を見せていなかった。 件の絵は京伝が置いていった。今は蔦重が日ごろ使う小座敷にあり、大きめの文箱に入れて保管している。 京伝は出して眺めてみてもいいと言っていたが、とても一人では見る気がしない。目の前でいきなり絵の顔が縮み出したら、魂消て心ノ臓が止まってしまいそうだからだ。 しかし冩樂に構図の変更を指示してしまった手前、一か八かの博打を打つのであれば、謎解きは早いほうがいいに違いなかった。 (明日あたり、銀座の家へ使いを出してみるか) 蔦重は京伝を呼び付ける決心をした。 勘定をして、店の外へ出た。 料理屋で手配してもらった駕籠を待つ間、周囲をぶらつく。 まだそれほど遅い時刻でもないので、大川沿いにはかなりの人出があった。 空を見上げると、黒地の上に砂を撒いたみたいな濁った闇が広がっていた。月も星もない。空気は湿り気を帯びて重かった。 (明日は、また雨かもしれんな) 生温かい風とともに、饐えたような水の匂いが鼻を掠めた。 (中篇に続く)
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